芸術評論 レジュメ

§ 「複製技術時代の芸術作品」 講読

1 テキストの背景

1-1) ウォルター・ベンヤミンとは、どんな人物か?

ウォルター・ベンヤミン(Walter Benjamin, 1892年7月15日 - 1940年9月26日)は、第二次世界大戦前の時期に主要な作品を残した、ドイツの思想家である。

ここでは、アウラという概念とともに知られている、『複製技術時代の芸術作品』を分析する。ベンヤミンは、特定のジャンルを体系的に分析した学者ではなく、文化評論、エッセイという形式をとった。

ベンヤミンは、第二次世界大戦の時代を生きたユダヤ人である。この時代、多くのユダヤ人芸術家・学者などが、ヨーロッパを逃れて、アメリカなどに移住した。同じくベンヤミンも、ナチスを逃れて、まずはフランスで亡命した。そして、フランスもナチスの手に落ちると、アメリカへの亡命を意図して、スペインとの国境の森を逃走するが、ポルバウという港町でスペイン警察に拘束され、睡眠薬自殺をするという悲劇的な末路をたどった。ただ、ベンヤミンの自殺については、謎めいたところがあるともされる。

1-2) 「複製技術時代の芸術作品」

2 ベンヤミン説の論証カード

2-1) 複製技術の芸術作品への影響

2-2) 複製技術から生まれた芸術作品の特性

3 原文要約 『複製技術時代の芸術作品』

1節 (導入) 

上部構造・下部構造という、マルクスの史的唯物論の影響を受けた概念を用いている。概念だけでなく、予測的な価値をもたせよるところも同様である。マルクスは下部構造である経済を分析し、ベンヤミンは上部構造である文化を分析しようとする。

2節 (問題提起)

木版画 → 印刷 → 彫刻銅版画 → 腐食銅版画 → 石版画(新しい段階) → 写真 → 音の複製 …と歴史的に推移してきたが、芸術作品の技術的複製は新しい。

@ 芸術作品の複製と、A 映画技術が、従来の芸術にどんな作用を及ぼしたかを調べたい。

3節 (芸術作品の複製、に関する一般論; アウラ概念の導入)

芸術作品は、それが存在する場所に、一回限り存在する。

 (しかし、) いま、ここに在るという特性は、複製にはない。いま、ここに在るという事実は、真正性という概念につながていくところ、真正性と複製技術は相互に矛盾関係にある。

複製のなかでも、技術によるものは、手製のものよりも、@ 普通は見えないものも見ることができる、A 移動可能性がある、という点で、自立的だといえる。しかし、それでも、作品が、いま、ここに在るということの価値だけは低下させる。

(ここで、いま、ここに在るという特性に、) 事物の権威 = アウラという概念を考えることにする。

(とすれば、次の結論が導かれる。)すなわち、 複製技術時代の芸術作品において滅びゆくものは、作品のアウラである。

4節 (芸術作品の複製、に関する一般論; 知覚の変化という視点から)

人間の知覚の在り方は、時代によって変化する。

現代の知覚は、複製を手段として、環境を非主観化していく性質のものである(多木はアジェの人が写っていないパリ市街の写真を例にとる)。

5節 (芸術作品の複製、に関する一般論; アウラ衰退の根拠 T)

芸術作品のアウラは、儀式と密接 → 儀式は、美の礼拝の形をもとる → しかし、複製によって、芸術作品と儀式との関係は弱くなる ⇒ したがって、芸術の社会的機能は変わった。

6節 (芸術作品の複製、に関する一般論; アウラ衰退の根拠 U)

3-6-1) 芸術の機能は、変化した

古代では、礼拝的価値(存在することが重要であって、見られることは重要ではない)を重視していた → 儀式との関連性が弱まるにつれて、作品は隠された形で保管されるのではなく、人々の前にあらわれる機会が増える → 複製技術の多様化は展示可能性を増大させる  ⇒ このようにして、今日の芸術作品は、展示的価値に重心を移すことによって、新しい機能をもつようになった。

3-6-2) では、現代の芸術の機能は、いかなるものか

(この点、)太古の技術は、多くの人間の力を必要とし、一回性を特質とする。(しかし、)現代の技術は、人間の労力を減少させ、多様な試みをすることを特質とする。

(いいかえれば、)現代の芸術の機能は、人間は自然と間隔をとりつつ、「遊戯(Spiel)」をすることとなった。

7節 (芸術作品の複製; 具体例としての写真)

写真の登場によって、展示的価値が礼拝的価値に対して優位となる。もっとも、人間の顔だけが、礼拝的価値の最後のものとして残る。 eg) アジェ

8節 (映画論; 導入 T)

映画の特質は、改良可能性にある  ⇒ 永遠の価値を目指すことを断念することになる

9節 (映画論; 導入 U)

これまでは、写真によって、芸術の質的変化が生じていたことを見落としていた。

10節 (映画論; 映画の特性 T)

@ 複製の対象は芸術作品ではない。 A 複製自体は作品の生産でなく、モンタージによって作品が成立する。

11節 (映画論; 映画の特性 U; 俳優)

映画俳優は、公衆の前ではなく、機械の前で演技をする。

俳優は、人格のアウラを失って活動する。

eg) 舞台芸術=役に没頭する vs 映画=没頭できない ∵ 断片化された演技から構成される

12節 (映画論; 映画の特性 V; 大衆の存在)

見えない、まだ存在していない大衆によって、俳優はコントロールされる。不可視性によって、大衆のコントロールの権威は高くなる。

13節 (映画論; 映画の特性 W)

大衆が映画に登場しようとする要求を持つ。 eg) ロシア映画

14節 (映画論; 映画の特性 X 絵画との比較)

画家 = 祈祷師 撮影技師 = 外科医
対象との自然な距離に配慮する 構造の奥深くまで分け入る
映像は総体的 映像はバラバラで、寄せ集められ、構成体となる

15節 (映画論; 映画の特性 W 大衆との関係)

(映画館では、)反応はあらわれると同時に相互のコントロールを受ける。

絵画は少人数で鑑賞されるものであり、集団による同時的受容には向いていない。大衆が、絵画を受容しつつ、自己を組織すると同時にコントロールすることは無理。

16節 (映画論; 映画の特性 W 社会的機能)

映画の社会的機能としてもっとも重要なことは、人間と機械装置とのあいだの釣り合いをとること。

巨大な遊戯空間がうまれる → eg) クローズアップ、スローモーションなどによって

17節 (映画論; 映画の特性 W 効果)

ダダイズムは、作品からアウラを消滅させ、創作の手段を使いながら、作品に複製の烙印を押している。精神を集中するのではなく、気散じが登場してきた。これらの作品は、触覚的な質を獲得した。

映画の気散じ的な要素も、第一に触覚的と言える。

18節 (まとめ)

大衆が母体となって、芸術作品に対する従来の態度を変えた。量が質に転化した。

芸術愛好家は集中して作品に近づくが、大衆は作品にくつろぎをもとめている、という批判がある。(しかし、)精密には、…精神を集中するひとは、作品に入り込むのに対して、くつろいだ大衆は、作品を自分のなかに沈潜させる。

建築は、使用=触覚的な受容(慣れによる)と、鑑賞=視覚的な受容(注目による)、という二重のしかたで受容される。

くつろいだ受容は、芸術のすべての分野で目立ってきており、知覚の変化の徴候となっている。

19節 (エピローグ; 政治と芸術)

プロレタリア化と大衆の組織化は、表裏の問題。

大衆は現在の所有関係を廃絶しようとするが、ファシズムは所有関係をそのままにして大衆を組織化しようとする。そして、戦争だけが、在来の所有関係を保存しつつ、最大規模の大衆運動にひとつの目標を与えることができる。

ファシズムは政治の耽美主義につながり、コミュニズムはこれに対して、芸術の政治化をもって答える。