美術評論演習 レジュメ

§ 流派(全体と個人)

1 画 派

1-1) 問題の所在

西洋近代の所産である、「個」を重視する視点からすると、芸術において「集団」性を重視する「流派」を考えることは矛盾とも思える。古典芸能ならいざ知らず、技能の継承を骨格とする「流派」が、創作を骨格とする「芸術」と整合的であるとは思えないからである。本論では、芸術における、集団と個人の関係に着目することによって議論を進める。

1-2) 代表的な画派

1-2-1) 狩野派

400年の歴史をもつ御用絵師の門閥である。15世紀の室町幕府の時代に始まり、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らの権力者に用いられ、江戸幕府によって保護された。血族や師弟関係によって維持され続けた画家集団である。

御用絵師として権威の中心であったと同時に、絵画教育のシステムを確立し、江戸時代の美術学校として機能していた。「町狩野」とよばれる、在野で活動する狩野派卒業生が、民間教育に大きな役割を果たしたようである。すなわち、のちにスタイルを変えた画家たちも、初期には狩野派に入門していた例が多い。この意味で、中世末期の狩野派と、近世の狩野派は、歴史的意義を異にするといえよう。

1-2-2) 土佐派

室町時代から江戸時代まで続いた画派である。狩野派と異なる点は、日本の大和絵を中心としていることと、朝廷をパトロンとしていたことがあげられる。

1-2-3) 琳派

琳派という用語は昭和になってからの造語といわれる。狩野派や土佐派のように、血族・弟子によって継承された集団ではなく、間接的な影響関係によって結びつく点で、ここで論じる「流派」とは異なる。中心的存在は、俵屋宗達、尾形光琳である。

2 狩野派の形成

2-1) 全体像

狩野派の全体像を系図で示す。岡倉天心の講義によると、様式的には、5つの時期に分けられるという。

すなわち、@正信・元信、A永徳・山楽、B探幽・常信、C古信、D栄信(伊川院)・養信(晴川院)らが活躍した時期である。

2-2) 初期狩野派の代表的絵師

狩野派成立・形成期の絵師
  狩野 元信 狩野 永徳 狩野 山楽 狩野 探幽
生 - 没 1476 - 1559 1543 - 1590 1559 - 1635 1602 - 1674
パトロン 足利幕府、朝廷 信長、秀吉 秀吉 家康
師弟関係 2代目 元信の孫 永徳の弟子 永徳の孫
作品例
備考 『四季花鳥図』 『唐獅子図』(宮内庁) 『牡丹図』(大覚寺) 『松鷹図』(二条城)
役割 客層の拡大のため、共同制作のシステムが必要となった。複数の画家が、一定のスタイルで作業できるよう、画体という学習概念をつくり、組織も構築した。元信は、流派としての実質的創始者といえる。 信長・秀吉が次々と建てる城郭の絵を担当した。画面を飛び出すような勢いのある巨木表現など、大画面主義が特徴である。 京狩野の始祖。永徳は、権力の行方に対応するため、血族・弟子を各方面に送り込んだ。豊臣方の担当となったのが、一番弟子の山楽である。徳川の恩赦を受けるが、京にとどまり、主流からは外れる。 狩野派最大の巨匠である。同時に、狩野派というシステムを、社会的に大成させた。絵画スタイルは、永徳の巨木主義をとらず、余白を有効に使い、枠の中での構成を意識した。大和絵との融合も模索している。

2-3) 中国絵画の知識

土佐派がやまと絵をスタイルとしたのに対して、狩野派は漢画をスタイルとした。絵画史上の評価では、狩野派は、日本古来のやまと絵と漢画を融合させ、新様式を確立したとされる。やまと絵・漢画ともに、厳密な定義はなされていないが、ここでは漢画について、中国の宋・元の時代の画風をいうとする。中心となるのは、水墨画である。

中国王朝の変遷は以下の通りである。北宋(960-1127) → 南宋(1127-1279) → 元(1260-1368) → 明(1368-1644)。ちなみに、雪舟が明に渡ったのは、1468年とされる。

3 狩野派から現れた個人

狩野派は、常に権力者につき、豪華な絵画を作成したが、400年にわたる中で生まれた多くの弟子たちには、得意な才能を発揮する画家たちもいた。流派としての一定のスタイルからも、異なる個性が生まれうる好例といえる。

狩野派に学びながら、個人的な画風を作った画家
  久隅 守景 英 一蝶 河鍋 暁斉 狩野 芳崖
生 - 没 不詳 1652 - 1724 1831 - 1889 1828 - 1888
師弟関係 探幽の弟子。のち、破門 安信の弟子。流刑となる 歌川国芳に学び、駿河台狩野家に学ぶ 雅信の弟子。
作品例
備考 『夕顔棚納涼図屏風』 『布晒舞図』 『蛙の蛇退治』 『仁王捉鬼』
役割 探幽門下の秀才とされたが、のちに破門される。農民の風俗を描いた絵を残す。 狩野派に入門するが、浮世絵にひかれ、風俗画の世界に入る。吉原に幇間として、出入りをした。 狂画という錦絵で人気。風刺画がもとで投獄。狩野派の絵画と、浮世絵的な風刺画の双方をこなす。 狩野派の塾頭から、長府藩の御用絵師となるが、明治維新で失職。フェノロサの知己を得て、日本画の新しい次元を開く。